肖像画で見る歴史と政治 / イタリア戦争時代

⭐︎歴史と政治
◉鉄血宰相ビスマルクの名言

『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』


それでは


ことわざ

地獄への道は善意で舗装されている

からローマ教皇ユリウス2世の事例で見てみましょう。

※ちなみに約100年後の場所は違えど極東の異国でも同じこと。明智光秀しかり、石田三成もしかり。彼らに見えなくて羽柴筑前守こと豊臣秀吉徳川家康には見えていた事がある。



まずは、今回の主役

この男の名

ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ


🔱第216代 ローマ教皇

          ユリウス2世

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教皇就任時と推測されるユリウス2世の肖像画

設定は59歳。


・ジュリアーノの暗澹たる日々が過ぎ去り

1503年11月1日 ローマ教皇となる

🏆『世界偉人列伝』ローマ教皇聖下

💎ローヴェレ家

🔱第216代ローマ教皇 ユリウス2世

👑カンブレー同盟 画策者

👑第5ラテラノ公会議 主宰者

👑武闘派教皇

👑芸術家パトロン貢献度は素晴らしい 

・が、政治家としては?



✝️216ローマ教皇ユリウス2世の政治の事例

世の無常 盛者必衰



⚔戦場へ出陣する武闘派ローマ教皇


『ユリウス2世の行くところ敵なし』と一般大衆の目には見えた。フランス勢の一掃、ラテラノ公会議の成功、皇帝をはじめとする世俗君主らの統合と、教皇の前は誰一人として立ち向かえる者はいない、と人々は思った。民衆のユリウス2世に対する感情は、これまでのどの教皇も受けなかったほどの感情と崇拝に変わっていた。


しかし、である。


毒をもって毒を制すというやり方は、有効なやり方ではある。だが、十分に注意していないと制するつもりで使った毒に、いつのまにか身体全体が冒されてしまう。この危機から免れる道は一つしかない。なるべく早期に『抗体』を作ってしまうこと、それしか道はない。


ユリウス2世は、その治世の初めから毒をもって毒を制すやり方の達人だったアレクサンデル6世と、同じ政策を取らざるを得ないことは、現状では致し方ないとは思っていた。だが彼は、たとえ同じやり方をとったとしても、この政敵とは目標が違うのだという自負心があった。アレクサンデルとチェーザレのボルジア家の父と子の二人は、外国からのイタリア独立を、自分たちの利己的な野望のために得ようとしたのに比べて、自分はローマ教会の権威の再建のためにしているのだと、それを誇りにさえしていた。


だが、ボルジアは、1500年、当初は軍事力を持たなかったチェーザレの後援のために、フランス王ルイ12世を北イタリアに引き入れたが、その後は、ロマーニャ公国を基盤としたチェーザレが、教会軍の増強に努め、その力でイタリアを統一しはじめ、二度と外国勢力を導入しようとはしなかった。すなわち、ボルジア家の父と子は、毒に対する抗体を作りはじめ、毒をもって毒を制すやり方から脱皮しつつあったのである。


⭐︎毒使いの達人

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🏆『世界偉人列伝』ローマ教皇聖下

💎ボルジア家

🔮Mr.ポイズン

🔱第214代ローマ教皇 アレクサンデル6世

👑歴代教皇の中で最も高い政治力を持つ男

🇫🇷国王シャルル8世・ルイ12世 論破

🌸花の都フィレンツェにて神権政治を唱える為政者サヴォナローラ 往復書簡にて喝破

🌟待つと言うことを知っている男

※能力✖︎権力✖︎財力で枢機卿中一番と言われながら、確実な時が来るまで、教皇の座を無駄に狙ったりせず34年間待ってきた男 とも言える(江戸の開府者 T川家康さんに似てますね😉)



一方、ユリウス2世は、抗体作りを忘れた。

ために、たえず新しい毒を使わねばならなくなった。

 

1506教会領内部の僭主が統治するボローニャ鎮圧のために、フランス勢という毒を注入。

同盟国、ヴェネツィア


1509ヴェネツィア戦、再びフランス勢の毒を注入。

同盟国『カンブレー同盟』ドイツ、スペイン、フェラーラマントヴァフィレンツェ


1511フランス&フェラーラ戦、スペインという毒を注入。


1512⚔スペイン戦を頭に置きながら、ドイツという毒を注入。


※このドイツという毒が後の『ローマ掠奪』の源泉となる。


敵対国と同盟国を一望するだけで、ユリウス2世の政策が、ひっきりなしに毒を取り換えることとともに、いかに支離滅裂であったかに驚かされる。昨日の味方は今日の敵となり、昨日の敵が今日は味方だという例は、小国まで数えていたらきりがない。




◉ここに、世に賞めそやされる使命感に燃えた人間の持つ危険と誤りがある。たしかに彼らには、狭い意味での利己心はない。だが、高い使命のために一身を捧げると思いこんでいるために、迷いや疑いを持たないから、独善的狂信的になりやすい。それで現実を見失う。だから、やり方は大胆であっても、やるひとつひとつが不統一になるのである。よって結果は失敗に終る。


◉一方、利己的な野望から、出発した場合は、それを達成するためには、手段は常に『有効』でなければならない。そのために行動の最中も疑いを持ち続けるということになり、独善的狂信的にはなりえないから、現実を見失うことはない。やり方は、同じく大胆不敵だが、そのひとつひとつが統一された政策につながっていることは、『有効』を第一とするところから、当然の帰結である。この場合、成功か失敗かは、運が決める。



ユリウス2世にとっては、政敵ボルジアと、同じやり方をせざる得なかったということだけでも、十分に腹立たしいことであった。しかも、それが、自分の方が失敗しつつあるとわかっては尚更である。ボルジアが、外国勢という毒に対する抗体に使えるとしてふれなかったヴェネツィアフェラーラというイタリア内の強国を、ユリウス2世は弱めてしまっていた。今さら抗体を作ろうにも、基盤になれる国は無くなっている。ユリウス2世の焦燥と絶望感は、日毎に、彼の肉体まで衰弱させていった。


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※その焦燥していた頃の肖像画は有名である。

🖼ラファエロ作 / 老年のユリウス2世


まだ、自分はローマ教会の栄光と独立のために身を捧げたのだという自負心を失わなかった。そして、イタリアの統一と独立は、教皇の下にあってこそ可能なのだという確信も持ち続けていた。イタリアを、教会の指導下に統一し独立させる。この考えは、宗教にとらわれない視点を持つ同時代の人々にとっては、妄想としかうつらなかった。


自分が所属する、いや自分自身が長である組織の持つ可能性の限界を冷静に見極めることは、誰にとっても難しい。アレクサンデル6世は、それをやった。政教分離しかローマ教会とイタリアの両方を救う道はないということを、彼は知っていた。だから、息子チェーザレの王国創立という野望を、全面的に援助したのである。



後年、1527年、ローマは、神聖ローマ帝国カール5世のドイツ・スペインによって、徹底的な破壊と掠奪を受ける。『ローマ掠奪』と呼ばれる、西ローマ帝国崩壊の時以来と言われるこの悲しい出来事の後、イタリアは、わずかにヴェネツィア共和国を除いて、スペインの実質的な支配下に入った。


※余談

ハイパーリアリスト国家でありアドリア海の女王ことヴェネツィア共和国

18世紀ナポレオンにより陥落

・情勢判断には長じているはずの現実主義者が誤りを犯すのは、『相手もまた同じで、それ故に馬鹿な真似はしないに違いない』と思いこんだ時である。




※本文は塩野七生 先生の『神の代理人』より部分抜粋

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